雑記


[「海猫」は見なくていい]

(04/11/19)



■原作を先に読んでみた■

もう買ってからだいぶ経つような気もするが、一昨日から二日かけて海猫の原作本をやっと読み切った。
あまりおもしろいとは思わなかった…。
風情とすべき部分は多いように感じたが、そこをあまり風情と感じられなかったのが大きい。
自分の感性が腐れたのか?愛だの性だのとか、もう「ああそうですか」って具合にありきたりにしか感じネェ。
しかし、映画はめちゃくちゃヒドイらしいという認識を手に入れてはじめて「これでもいいのか」って感じちゃうのが切ない。

そりゃぁ最初は映画のパブの先入観で読みましたとも。
んでも、原作のキーはそこじゃないことに気付いた。いや、作者や他人がどう思おうが俺はそこじゃないと思うだけの話。

あー、そうそう、今更断りますが映画は見てませんよ(ていうかもう見たくネェヤ)。

この話には昭和三十年代と五十年代の二つの時間があるが、たぶん映画は前者をキーにおいていることだろう。まぁここを見れ。最後に「3人の物語は」なんて書いてるあたり露骨にそうなのだろうと感じる。
で、後者はそこの冒頭にある野田美輝はうんぬん…に絡むあたり。 こちらの設定はかなり原作より変えられているようだが、そこもまた前者をキーにおくゆえだろうか。
だが、両方並列に扱ってはじめて「時間」というキーが表れてこの作品になると自分は思う。

三十年代に描かれるのは刹那的な感覚で、それを追い求めて人は過ちを犯す…とか書いたら綺麗すぎるか。人心や風景といった、移り変わるものの移り変わり方はプラスマイナスというか、180度というか、そんな感じ。
五十年代に描かれるのは…人生すか。時代が現代に近くなり、漁村がメインの舞台で無くなったことも大きいだろうが、三十年代にあったようなビビッドな変遷は無く、「積み重ね」によって物事が動いていく。
だからといって雪がしんしんと降り積もるように、五十年代が三十年代に比べ静かに流れていくわけではない。
薫の産んだ姉妹(+美輝のダンナ)は多少キチガイじみていてエキセントリックに成長していくし、三十年代の人物にも「老い」が訪れており、時間の流れに対してイベントが多く、それを一つ一つジメジメと長ったらしく描かないので、時間の流れは早く感じる。
そうして三十年代と五十年代と、対比できる二つがあるからこの作品は成り立つと思う。

正直言って三十年代だけをみたって、たいしておもしろくないんだよな。(俺が女じゃないからかもしれんが薫の話より孝志の話の方がよっっっぽどおもしろく感じたし)
んで、映画じゃ五十年代をほとんど省いているであろう影響で登場人物の設定が変えられているのもなんともかんとも。
一番は修介。もはや別人ではないか。というかこの分じゃ美輝も別人だろうな。
次はタミ。いや、ロシアに渡ったのはダメだろ。
いやはや、原作を先に読むとこういう細かいことに馬鹿馬鹿しくツッコみを入れたくなるからおもしろいですな。

というワケで、伊東美咲主演などもはやどうでもいいのでありました。


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