わすれじ 僕も夏服のワイシャツでした。僕は、犬と一緒に河原をずっと走っていました。彼は独り身の捨て犬です。家につれて帰ったら、親に怒られ、なんだか無性にそうしたい思いが募って、僕は彼と家を飛び出しました。
ふと目覚めたような朝の薄明るさも、振り向いてしまいそうな黄昏の色も見た気がします。とにかく、僕らは連れ立って見知らぬ遠い街に来ました。 僕たちは、その市場でとても気の良くて親切なおじさんとおばさんに出会いました。少しためらいましたが、彼らの気心に心が洗われたのでしょうか、僕は事情を話しました。彼らは負の一つも感じられない明るい態度で、「うちに来なさい」と言ってくれました。僕たちはお世話になることにしました。 それから僕たちはまた河原にいました。でも今度は走っているのではありません。僕は草むらに腰を下ろして、犬はそこいらをウロウロしています。 おじさんとおばさんは市場で魚屋をしていて、仕事が終わるまで僕たちは時間を潰すことにしたのです。あたりの日差しは黄色みを帯びていました。けれど空にはまだ明るめの水色も見えます。僕はふと腕を顔の前に上げました。時間を見ようと思ったのです。でもそこに腕時計はありませんでした。あなたのくれた腕時計。家に置いてきたのだと気付いて、物足りない気分になりました。おじさんとおばさんには、6時頃に市場に戻ると言ってきたのですが、僕はこのまま時間を忘れてしまって、彼らに迷惑をかけはしないかと心配になりました。 お世話になる身・・・それだけで迷惑ではありますが、それ以上の迷惑はかけたくありません。彼らはあんなに優しいのですから。 ・・・優しいのですから・・・ ああ、犬の姿がにじんでいきます。草むらをあさっている後ろ姿が二重に見えます。どちらも犬の姿です。けれどどちらかは犬ではないのです。プリズムも見えます。眩しくて目の前の像も隠れてしまいそうです。目をきつくつむりましたが、まつげに滴がしがみつきます。これが浮世の情けでしょうか。 思いはあなたに飛躍します。通学の道で笑った顔が、商店で楽しむその顔が見えます。かき氷を食べる顔や、電話をする顔も見えます。暑くて無気力なときにかけてくれた、元気な声が聞こえます。駅から手を振って、名前を呼んでくれる声も聞こえます。でも、突然家を出た僕をどう思っているでしょう?その答えは見えも聞こえもしません。 恋はこうして静かに暮れていくのだと思いました。そして、あなたにきちんとした気持ちで向き合っていなかったことをとても申し訳なく思いました。 いつの間にかうつむいた頃、犬が、拾ったパペットを口にくわえてきました。そのパペットには糸もついていましたが、関節が傷んでいて、動きもしませんでした。 「かわいそうにな。これは僕かもしれない。」 犬が言いました。
|